真宗高田派について

真宗高田派は専修寺(三重県津市一身田2819)を本山とする真宗の一派です。

真宗の開祖である親鸞聖人(1173〜1263)は29歳の時、20年間の比叡山での修行を捨てて、法然上人(1133〜1212)の弟子となられました。法然上人の念仏の教えは、これまでの仏教とは全く違った新しい仏教でした。そのため、当時の仏教界の権威であった比叡山延暦寺や奈良の興福寺から激しい非難・攻撃を受けておりました。

親鸞聖人が法然上人の弟子となられて6年、親鸞聖人35歳の時の事です。法然上人の弟子である安楽坊・住蓮坊が催す法会に、後鳥羽上皇に仕える女官の松虫・鈴虫が参加し、その教えに感動するあまり出家してしまいました。後鳥羽上皇は激怒し、1207(承元元)年、住蓮坊・安楽坊ら4名を死罪に、法然上人をはじめ7名を流罪に処されました。親鸞聖人も流罪になった一人で、越後国の国府に流されました。これが「承元の法難」と言われる弾圧事件です。

流罪になって5年、親鸞聖人は罪を赦されます。しかしすぐには京都に戻られず、なお2年程留まられた後に越後国を立たれます。おそらく越後在住の間に善光寺聖と交流があったのでしょう、まず信濃国の善光寺に100日間逗留されます。その後関東に赴き、執筆と各地での布教活動に尽力されます。関東の地は、親鸞聖人がおよそ40歳から60歳にかけての壮年期に念仏の教えを広めることに心血を注がれた土地ですから、まさしく真宗発祥の地と言えます。

1224(元仁元)年、親鸞聖人52歳の時、常陸国(茨城県)稲田に止住して主著『顕浄土真実教行証文類』の草稿本を完成されました。この年を真宗教団では立教開宗の年と定めております。

関東各地での布教活動の結果、常陸・下野・下総等の諸国に多くの門弟が生まれます。『親鸞聖人門侶交名牒』には、親鸞聖人から直接教えを受けた門弟48名が記載されています。また記載に漏れた者も20余名あることから、親鸞聖人から直接教えを受けた門弟は少なくとも70余名になると思われます。その直弟子たちを中心として念仏集団が数多く生まれます。彼らはリーダーである直弟子の居住する地名を集団の名称としました。たとえば、下野国(栃木県)高田の真仏を中心とする集団は高田門徒、下総国(茨城県)横曽根の性信を中心とする集団は横曽根門徒と称しました。

高田門徒は、下野国高田(現栃木県真岡市)にある、一光三尊阿弥陀仏を本尊とする如来堂で親鸞聖人の教化を受けた念仏集団で、真仏上人(1209〜1258)をはじめ顕智上人(1226〜1310)や専信房専海など多くの高弟を輩出しました。この高田門徒が後に真宗専修寺教団そして真宗高田派教団へと、そしてこの如来堂が専修寺として発展していきます。

親鸞聖人が京都に戻られるにあたり、専修寺は真仏上人が継承しました。真仏上人によって高田門徒は関東の念仏集団の中で指導的な立場を占めるようになります。現在、高田派本山専修寺には親鸞聖人自筆の手紙や書物などが数多く所蔵されており、高田門徒に対する親鸞聖人の信頼の厚さが窺えます。

真仏上人は親鸞聖人に先立つこと4年、1258(正嘉2)年に50歳で没しますが、後を継いだ顕智上人は、しばしば上洛して親鸞聖人の教えを受け、それを関東の門徒たちに伝えるなど、高田門徒だけでなく関東の念仏集団の筆頭として活躍されます。さらに下野国から三河国、さらに越前国へと教線を広げ、真宗興隆に重要な役割を果されます。また親鸞聖人の往生、葬儀に同座され、大谷廟堂(後の本願寺)の創建とその維持にも尽力されました。

高田派第10世の真慧上人(1434〜1512)も、伊勢、北陸方面に積極的に赴き布教活動を行われ、1465(寛正6)年には三重県一身田に伊勢の中心寺院として無量壽院を建てられました。その後、関東の専修寺が火災にあったため、高田派の歴代上人が一身田に住むようになりました。本山の機構や宝物類も関東から移され、一身田の無量壽院も「専修寺」と呼ばれるようになりました。現在では、一身田の寺を本山専修寺、下野国(栃木県)の寺を本寺専修寺と区別して呼びならわしております。

本山専修寺の伽藍は1580(天正8)年と1645(正保2)年の二度にわたって焼失し再建されたもので、現在の御影堂は1666(寛文6)年に完成しました。如来堂の再建は御影堂よりかなり遅れ、1748(寛延元)年にようやく完成しました。両御堂は2017(平成29)年11月、国宝に指定されました。

真宗高田派専修寺の法灯は親鸞聖人から高弟の真仏上人・顕智上人へ、さらに中興の祖、真慧上人へと継承され、現在に至るまで800年の時を経て脈々と伝えられています。